2025.12.05
TOKYO発 2025年
戦後80年 まぶたの級友
平和祈る97歳 恵泉女学園で学んだ日系米国人学生 帰国しても日本にとどまっても苦難
都内に暮らす90代の女性は平和を祈り続けている。太平洋戦争中、共に学んだ米国出身の日系人留学生たちは戦禍と人種差別を受けた。級友たちの「二重の苦しみ」を目の当たりにした思いを、戦後80年の今、語った。
卒業女性 元留学生の声を集め本も
女性は、世田谷区の恵泉女学園普通部に通っていた吉川俊子さん(97)。卒業後は教師となり、同校の短大で英文学を教えた。
キリスト教主義の恵泉女学園は、1935年9月から日系人留学生を受け入れた。41年4月に入学した吉川さんにとって、留学生は「自由で華やかなお姉さんたち」だった。化粧をし、髪はパーマをかけ、爪をピンク色などに染めていたという。
学園の史料室にはタップダンスを踊る留学生姉妹や竹取物語の劇を演じる様子などの写真が残る。「日本語が堪能ではない留学生たちが難しい言葉を使ったり日本の慣習を取り入れたりした劇は開けっぴろげで明るかった」と振り返る。
日米開戦の機運が高まると、多くの留学生たちは米国に帰った。史料室に残る「調査用簿」によると、41年5月に最多の21人が帰国した。同年12月に開戦。日本にとどまった留学生は戦争に巻き込まれていった。
米国出身の「ジュン」という級友がいた。「英語で読んでみて、とお願いすると本場の発音を聞かせてくれた」と吉川さん。下宿先まで遊びに行き、お菓子をふるまってもらったという。ともに当時渋谷区にあった軍服や毛布などを洗濯する工場で働いた。同窓生が工場で働いていた当時を振り返る本「想起」の中には「ジュン」が洗濯物の乾燥仕上げをする写真が載っている。「通勤中に空襲があると、電車を降りて線路を歩いて出勤した。子どもを抱いた母親の遺体も見た」
学校は戦時中も平和教育と英語の授業を続けた。社会からの風当たりは強かった。学校の周りで憲兵から「河井道(学校創立者)は校内で平和の話をしたか?」とチェックされ、「けしからん学校だ」と町の人からにらまれた。生徒が学校から最寄り駅まで草むしりをさせられたことも。
「電車の中で、英語で書かれた本を読んでいたら非国民と言われ、頭をたたかれた」と吉川さん。「学校の外では鬼畜米英、敵を憎めと言われたが、校内では平和への希望を捨てないという教育だった。宣教師ら米国人との交流もあり、相手は鬼畜じゃないと知っていた」
吉川さんは2001年に渡米し、同校に留学していた日系人をインタビューして本にまとめた。「華やかだ」と思っていた留学生たちが「米国社会では目立たないよう、ひっそりと暮らしている」ことを知った。
日本に残った留学生は空襲を経験し、敵国出身であることを隠して生活した。帰国した留学生も多くは日系人強制収容所に送られ厳しい生活を送り、戦後も差別に耐えながら暮らした。真珠湾攻撃を経験した留学生もいる。「米国社会では日系人とにらまれ、日本では英語しか話せないと言われる。どっちに行っても社会に溶け込めない存在だった」
「戦争中は敵を憎め、と教える。人間を精神的にも肉体的にも滅ぼすということをこの目で見てきた」。吉川さんは体調の許す限り、今も教会に週に1度通い、祈りをささげている。
恵泉女学園
1929年、キリスト教徒で女性に平和を教えるため教育に力を入れた河井道(1877~1953年)が設立。35年9月から「特別教育部留学生特別科(留学生科)」を設け、初年度は留学生12人が入学した。米国のハワイをはじめ、カリフォルニア州やワシントン州などから渡ってきた。米国出身者も普通部や高等部に入学した。学園の史料室によると、太平洋戦争の影響で閉鎖した42年3月までに留学生科には110~140人が在籍、卒業生は約50人。卒業などの記録がなくても同窓生名簿に名前がある生徒もいる。
文と写真・木戸佑
2025年12月5日 東京新聞朝刊 東京発
https://www.tokyo-np.co.jp/article/453664