2024.02.19
<大江戸残照トリップ
田中優子さんと歩く>(1)浅草・待乳山聖天
大根まつり 明るさに満ち
東京という町の下には江戸が生きている。路地裏を歩き、寺社を訪ねて耳を澄ませば、往時の江戸っ子たちのざわめきが今にも聞こえてきそうな錯覚に陥る。刺激的な体験だ。江戸学の第一人者である法政大前総長・田中優子さんに水先案内人をお願いし、探検の旅を始めます。初回は浅草・待乳山聖天(まつちやましょうでん)(台東区)へ。
待乳山聖天の1年は、毎年1月7日の大根まつりで始まる。大根は心身を清浄にする「聖天様」の「おはたらき」を象徴するものとされ、まつりでは善男善女が大根を供えてお参りし、お下がりのふろふき大根を食して新春を祝う。
コロナ禍のため中止や規模の縮小が続き、今年は5年ぶりの通常開催。神楽太鼓が鳴り響き、ゆず味噌(みそ)の香りが漂う境内に、温かなふろふき大根を求めて長い列ができた。平田真純住職は「やっと本来の正月が戻ってきました」と穏やかな表情だった。
田中優子さんはまつりの前日に足を運び、平田住職と寺の起源など歴史談議に花を咲かせた。「ここは底抜けの明るさに満ちた大好きな場所」と田中さん。寺のシンボルマークは二股大根と巾着だが、たしかに性の豊穣(ほうじょう)を表すという二股大根といい、財宝のような巾着といい、江戸っ子好みのユーモアが、本殿やちょうちん、石段脇など境内のそこかしこにあふれている。
もともと「聖天様」は信仰の山である一方で、隅田川を望む景勝の地として人気が高かった。歌川広重らによる数多くの浮世絵が残っている。歳月を経て、2012年には川の対岸に東京スカイツリーの威容が加わった。
◆ひとあしのばして 池波正太郎生誕地 「アリの街」跡
待乳山聖天の入り口の石段下には「鬼平犯科帳」「剣客商売」などの時代小説で知られる作家・池波正太郎(1923~90年)の生誕地の碑がある。近くの浅草7丁目3番付近で生まれ、待乳山、橋場、今戸などを舞台に作品を書いた。
待乳山の北側は、遊郭・吉原と隅田川を結んだ水路の山谷堀があった。遊客が猪牙船(ちょきぶね)に乗って一夜の夢を買いに通った水路は、現在は埋め立てられ、山谷堀公園となっている。
東側は梅や桜の名所の隅田公園。ここには戦後、廃品回収業者や戦災孤児が集まる通称「アリの街」があった。「アリの街のマリア」と呼ばれた社会奉仕家・北原怜子(さとこ)(1929~58年)の物語は映画や舞台にもなった。映画には若き日の美輪明宏さん(88)が準主役で出演している。
◆江戸の始まり 田中優子
洗い上げられた白い大根が、本堂中央の壇に積み上げられている。冬の光の中で、実に清浄だ。これが待乳山聖天の日常である。
なぜ大根なのか? 大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)(*1)の寺だからである。聖天すなわち歓喜天、別名ガネーシャは、中国西域の敦煌(とんこう)で蘿蔔根(ルオボゲン)と呼ばれる二股の大根をもつ姿で発見されている。ともに描かれている女天は歓喜団といわれる菓子をもっている。これが日本の待乳山聖天では大根と巾着として表現された。
よくある仏教とは異なるシンボルだが、不思議なのはシンボルだけではない。待乳山は推古天皇(*2)の時代に忽然(こつぜん)と湧き出た霊山、とされているのだ。しかもその時、金龍が天より降って山を廻り、さらに十一面観世音菩薩(ぼさつ)が大聖歓喜天の姿となってこの山に降臨した、とある。仏教の菩薩や仏とインドの神々が同じものとされ、そのインドの神が日本にやってきて仏教が広まる。これは典型的な本地垂迹(ほんちすいじゃく)説話(*3)である。推古天皇の時代は、日本に仏教が定着した時代だった。6世紀から8世紀は関東一帯に、上方から朝鮮系渡来人が続々と入植してきた時代でもあった。渡来人は馬の飼育、漁の技術、麻、絹、瓦、皮革、漢字、絵画、そして仏教を日本にもたらしたのである。
浅草の三社祭はよく知られている。その三社とは土師臣真中知(はじのおみのまつち)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)のことで、この中の土師氏は埴輪(はにわ)、土器、墳墓の技術者だったといわれている。待乳山は明らかにこの真中知にちなんだ山だ。土師氏の一族は聖天信仰を携えて浅草に定着したのかもしれない。そうであるなら、檜前一族は、観音信仰を持って浅草に入った可能性がある。どちらにしても7世紀ごろのことであるから、浅草は、江戸が開かれた最初の場所なのではないだろうか。(江戸学者・法政大前総長)
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*1 仏教の守護神の一つ
*2 554~628年
*3 菩薩や仏が姿(本地)を神に変えて現れたとする考え方
文・坂本充孝
写真・田中健
紙面構成・宮本直子
2024年1月21日 東京新聞朝刊